2017年07月1日

パールハーバー③

  

 

前回の続きです。
調印場所から少し艦尾に進むと、右舷にわずかに船体の凹みが確認できます。(写真左)
これが神風特攻隊が突入した跡です。米国では「カミカゼ・アタック・サイト」と呼ばれ
ているようです。
1945年4月11日、鹿児島県喜界島沖で、ミズーリに1機の零戦が突入し、機体は大破。漏れ
た燃料が甲板上で燃えたもの、ミズーリ自体の損傷は軽微なものにとどまりました。
そして後には、若い日本兵の遺体が残りました。
ウィリアム・キャラハン艦長は、軍人としての勤めを果たしたこの日本兵を手厚く水葬にす
るよう命じます。自分たちの命を狙ったこの敵兵に対して、そんなことをする必要はないと
いう声もあがったようですが、艦長の命令に従って翌12日、礼砲をともなった正式な水葬が
行われます。(写真右)

この話には後日談があります。戦後、この日本兵が石野節雄・二等飛行兵曹(当時19歳)で
あることが判明し、彼の親族とキャラハン艦長の長男、さらに元乗組員がミズーリ艦上の慰
霊祭で対面するのです。石野節夫さんの叔母にあたる鎌田淳子さんが、その慰霊祭において
石野さんが手厚く葬られたことに感謝の意を述べられたそうです。
この慰霊祭が行われたのは2001年4月12日。石野節夫二等兵の水葬の日から実に56年の年月
が経っていました。

19歳の若さでこの大きな戦艦に突入するのは、どんなに恐ろしかっただろうと思います。そ
してその後日談を知った時、戦争の悲惨さと同時に平和の尊さを改めて認識させられました。
また本校生にとっても、貴重な平和学習の機会となりました。
福力